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三浦徹氏 My Story (vol.2)

日本でユーフォニアムを広め、演奏水準の向上に多大な貢献をしたユーフォニアム奏者三浦徹氏。その経歴やユーフォニアムの魅力、また愛奏する〈ベッソン〉の楽器について伺ったお話を、2回の記事にまとめました。(取材:木幡一誠)
※ 本ページは後半部分です。記事前半はこちらからお読みください。


東京佼成ウインドオーケストラでの活動

  アメリカ留学から戻られた後は、東京佼成ウインドオーケストラで要職をおつとめになります。
三浦(敬称略) 正式に入団するまでには若干の時間を要しています。東京佼成で私と一緒に演奏した人は年々少なくなっており、今ではもう10人を切ったのではないかと思いますね。
今でこそ日本で一番のウインドオーケストラですが、私が学生時代に2回ほどエキストラでおじゃまさせていただいた際は、まだ東京佼成吹奏楽団という名前で、活動もセミプロ的でした。帰国後に初めて来てくれといわれたときには既に名前も変わって、音楽大学卒の楽団員を中心にメンバーも入れ替わり、水準も上がっていました。しかしまだ組織的には中途半端な状態だったと思います。それが1970年代後半。私はずっとエキストラで参加していました。こう話すと偉そうですが、「入ってくれ!」としょっちゅう懇願されましてね。ただ、自分では音楽大学の教師になりたいと考えていて、帰国の翌年から国立音大と尚美学園と玉川大学と3つの学校をかけもちで教え始めていましたから、どこか常勤で呼んでくれたら……、などと。
それに当時はオーケストラの仕事がたくさんあったんです。昔の日本フィルが新日本フィルと分かれたりして、全国的にオーケストラの数も増え出して、「展覧会の絵」だの「英雄の生涯」だの「惑星」だの、ユーフォニアムのある曲がずいぶん取り上げられるようになり、あちこちから声をかけていただきました。

  まさに引っ張りだこのプレイヤー!
三浦 これも偉そうになりますが、本当にそのとおり(笑)。そもそも他に人がいません。とりあえず三浦しかいないという頃です。
その一方で東京佼成も1979年や80年あたりから年を追って活動が充実しましてね、レコーディングも盛んになります。並行して、外国人指揮者の招聘も始まる。作曲家としても高名なアルフレッド・リードや、ジョン・ペインターなどですね。私が通訳兼運転手兼ユーフォニアム奏者という役目を仰せつかり(笑)、リードさんにもずいぶん可愛がってもらいました。そして当時は合歓の郷でバンド・クリニックが開かれており、私はそこにユーフォニアムの講師でも呼ばれ、つまりクリニックのゲストでなおかつ東京佼成のエキストラとして演奏に参加すると、そんな立場だったりしました。そこへ恩師のハンスバーガー先生もゲストでいらして、「やあ、頑張っているね!」と声をかけてくださる。入団に関して若干の迷いも……などとお話すれば、「でもプロの楽団だろう? サックスやユーフォニアムには貴重な機会だよ」と諭されたり。そんな経緯を経て、正式に入団したのは1982年になります。

フェネルに学んだ「空間を響かせる」こと

  フェネルを指揮者として招いたのもその前後の時期ですね。
三浦 1981年3月に初めてお呼びして、本当に素晴らしかったですね。フチークというチェコの作曲家に「フローレンティナー」という行進曲があります。それがもう、オペラになっちゃいます! トリオの部分が……(歌ってみせる)、こんなきれいな旋律で、それがもう今にも止まってしまうかのように。「どうしてテンポを遅くするんですか?」と失礼にも的外れな質問が飛んだりしましたが、先生が“Because music says so.”と一言。「音楽がそうしろって」と訳すと、楽団員が「うわー、かっこいい!」(笑)。当時はみんな30歳出た程度で若かったですから、もう感激しちゃって、フェネル良いなあ、また呼ぼうと。そういう動きになったんです。常任指揮者に就任されたのが1984年1月でしたね。フェネル先生のもとで楽団員の意識も変わり、母体となる立正佼成会も改めて我々の存在意義を認識するようになったと思います。
そして世の中は本当に偶然の巡り合わせですね。バブル経済で日本の景気が良い状況になって、そのおかげで1989年にはヨーロッパへ行かせてもらえました。日本の立正佼成会を代表する平和使節として……。宗教法人としては国際的な組織で、ドイツやフランスにも教会がありますからね。そこを訪れるという名目。まあ、タイトルは何とでもつければいいんです(笑)。海外公演をすると、これはどんなオーケストラでも例外なく良い方向に変わります。言葉の通じない外国で、伝統的にクラシック音楽を育んできた響きの良い会場で、大きな拍手をもらって……。そうすると演奏がどんどん生きてきます。中高生のバンドでも海外公演をこなすと、本当にみんな自信満々になりますね。

  指揮者フェネルの音作りに接した印象は?
三浦 先生の素晴らしいところは、たとえばスーザの行進曲ひとつとってもサウンドに深みがある。1つには打楽器の使い方ですね。たとえば大太鼓は皮を緩めにして、低い周波数の音にする。テューバやコントラバスよりもさらに低い音域を受け持つ、そういう効果をもたらすものだというのが持論です。マレットも先生が自分で作ったものを持参して、これで叩け、と。
いわゆる交響楽団ですと、胴体に共鳴箱を持っている弦楽器のセクションがいますから、彼らがこう(弓を一杯に使う動作をしながら)弾き鳴らすと、本当に深いところから響きが生まれてきます。つまりシンフォニックな、人を感動させる、心地よくさせる、驚きを誘うサウンドです。それが吹奏楽だと下手をしますと、表面的に大きな音が鳴っているように聴こえがちです。先生が自ら設立にあたったイーストマン・ウインドアンサンブルで実践してきた音作りは、その点で一線を画したものでした。
もう1つ重要なのが、「空間を響かせる」こと。これもフェネル先生から教わりました。日本の吹奏楽団は大きい音がするけれど、空間を響かせるという発想がないというんです。子供たちのコンクールを聴いていても、なかなかそこまでのレベルには達しませんね。ステージ上でいくら音が鳴っていても、客席にまで響かせるという意識がないと、サウンドとして飛んで行きません。集団になればなるほどそうです。1個の音符をとっても、その発音となるアタックをどう処理し、そしてどう長さを保ち、音の語尾をリリースするかによって、空間の中への飛んで行き方が変わります。それができれば、どんなにデッドな会場でも良い響きが作るんです。

「音のセンター」を常に意識しながら

  「良い響き」という言葉は、ユーフォニアムという楽器の本質的な魅力に通じるものですね。
三浦 元々が円錐形の楽器で、朗々と良く響くように作られています。そんな楽器を手にソロを吹いたり、楽団の中ではトロンボーンやテューバと一緒になって、メロディーを吹いたりハーモニーを合わせたりと、いろんな役割がありますね。そこでたとえば、私が吹く〈ベッソン〉のように肉厚の設計で、響きの豊かな楽器の場合、明瞭さに欠けがちだったりもします。逆に明瞭すぎれば響きが薄くなって安っぽくなる。極端な言い方ですが、傾向としては認められるでしょう。
そこで重視すべきは「音のセンター」。音は目で見えませんが、音の中心を常に感じなさいと生徒にも教えます。音の中心を感じてフォーカスするように……。目で見えないことをイメージするのは大事で、先ほどの空間に音を響かせる技術にも通じます。特にユーフォニアムの場合、トロンボーンに学ぶような吹き方を意識してみるとよいかもしれません。トロンボーンは円筒管だから、音が直線的です。円錐管のユーフォニアムはまろやかな反面、周囲に潜ってしまいやすい。そんな楽器の特質に負けないよう、本来の美質である、柔らかくたっぷりと豊かな響きの中にも、音のセンターが明瞭に感じとれるようにしたいですね。
吹奏楽のコンポーザーやアレンジャーは、演奏家の都合を考えながら、「こう書けばこういう音が出るだろう」と予測を立てて書いています。しかし必ずしもパーフェクトではありません。スコアを書くときは横並びになってしまいます。そこで果たして、トロンボーンと同じアーティキュレーションでユーフォニアムも吹いてよいものか? トロンボーンと同じ音形にスラーが書かれていても、我々の場合はむしろ全部とったほうがよかったりもします。同じようにソロの場合でも完全なスラーではなく、柔らかいシラブルのタンギングを補ったほうがフレーズを明瞭にできるときもある。客席だと立派につながって聴こえて、なおかつ鮮明になったりするものです。その辺は経験の積み重ねでもあり、東京佼成のレコーディングも勉強になりましたね。録音したばかりのテイクに耳を傾け、自分の吹き方でちゃんと明瞭に聴こえているか確かめたりしながら……。

〈ベッソン〉と共に歩んだパイオニアとしての道

  愛用の楽器はずっと〈ベッソン〉。
三浦 はい。現在は “プレスティージュ“で、このモデルが日本に入ってきたときから使い続けています。先ほどの話でいうと、音のセンターが狙いやすい楽器です。
芸大の入試のときに入手した〈ベッソン〉も、まだ大事に吹いていますよ。年代的にいうと「オールド・ベッソン」と呼ばれます。これも素晴らしい音のする、イギリスの職人さんの魂が入った楽器ですね。ただ、当時の製法ですと、科学的に分析がなされたデータに基づく今の楽器とは違って、内径のテーパーなども、言葉はなんですがイージーに作ってありましてね。ピッチも上は高くて下は低くなりがちという傾向があります。そこで私は、主管の長さを変えるために左手親指で操作するトリガーを考案しましてね。ビュッフェ・クランポンの保良徹社長からも許諾を得て、国内の工房でトリガーをつけてもらいました。そして、イギリス本国で製作する楽器にもトリガーが搭載されるということまで実現できたのです。
それが1990年代に入ってからのこと。今の楽器はすべてこうした流れをくぐり抜けてきているから、ずいぶん性能がアップしたと思います。イギリスのプレイヤーでも、スティーヴン・ミードさんなどはトリガーの効能について早くから理解を示していただけました。ロバート・チャイルズとニコラス・チャイルズの兄弟が初来日したときもトリガーの話になったら、「これは確かに良いものだけど、僕らは(主管を伸ばしたときに)お腹にあたってちょっと使いづらいね」と冗談めかして笑っていました。そして「音程は口で修正できるし、自分たちが使っているもので楽器としてはパーフェクトだ」と。しかし私が思うに、楽器はあくまで道具にすぎませんから、これでパーフェクトなどということはありえない。それにトリガーは自然倍音の響きを保ったまま、トロンボーンと同じようにイントネーションを調整できるのがメリットです。

  メインでお使いになる楽器が “プレスティージュ”で、曲や会場によってはオールド・ベッソンを手にしたりするということですか?
三浦 たとえばフルートのように、ここは会場が広いから総金製で……というような使い分け方は、私たちの場合あまりないですね。今日は吹奏楽のステージでアンサンブルの中でハーモニーが多いから、じゃあ “プレスティージュ”がいいだろう。今日はソロで音色を重視したいから、オールド・ベッソンでも良い味が出せるだろう、とか。そんな感じですね。アマチュアの方々でもオールド・ベッソンをこよなく愛する世代が秘密結社さながらに(笑)、同好の士の集会を開いたりしていますよ。

  先生がパイオニアとなって後進の指導にもあたられたユーフォニアム界は、今やとても奏者の層が厚くなっています。
三浦 私はずいぶん歳が離れていてよかったと思います。とても今の優秀な若手奏者と競争する気にはなりません(笑)。楽器メーカーにも助けられてきたと思います。楽器があって今日につながっているわけですからね。若い人たちがたくさん出てきて、それぞれに思い思いの方向性で身を立て、演奏活動を続けられる世の中であれば幸せだと思いますし、そういう若者たちに夢を与えていくのは大事な仕事だと思います。
若い世代の活躍でずいぶん新しい曲も生まれるようになりました。ユーフォニアム奏者の枠内を超えて聴き継がれるものが出てくることを願いたいですね。私自身では今までに15曲ほど委嘱しました。1986年にテキサス州のオースティンで開催された第3回世界テューバ・ユーフォニアム・カンファレンスが初演の場となった保科洋さんの「ファンタジー」などは、私自身もCDに録音したりしましたが、若い世代の間でもレパートリーとして定着してくれているようです。他にも伊藤康英さんをはじめとして、才能豊かな方々が身近にいてくれたのは幸運なことでした。「こんなのどうですか?」と、アイデアも向こうのほうから持ちかけてくれたりしますからね。
シンセサイザーとユーフォニアムというユニットの曲も、永野光浩さんに書いていただきましたが、これはなぜか、個人的な印象になりますが体力的にキツい(笑)。バテるのが早いんです。いわゆるアコースティックではない、生音ではない電子音を相手にしていると、どこかで消耗するのでしょうか。演奏した当時はDATやCD-ROMで流すわけですが、「せーの!」で始めた後はマシン任せです。そしてマシンはデュナーミクが、音量の変化が自由自在で……。それもあるのでしょうね、きっと。人間では不可能なことまで相手がこなして、そこに合わせるのを要求されてしまうから。

※ 三浦氏が使用している楽器の紹介ページは以下をご覧ください。
〈ベッソン〉ユーフォニアム”プレスティージュ

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